人の死について [考えごと]
電話は昨日の夜中にあり、学生時代から付き合いのあるSからだった。
こちらからかけ直してみると、「Aが昨日の朝に亡くなった」という知らせがAの妻から入ったというものだった。
AとはSら数人の仲間と一緒に年に一~二回くらい酒を飲む程度の付き合いだった。
昨年も同じ飲み仲間の一人Tが亡くなっている。
三ヶ月ほど前、その仲間の飲み会があり、一緒にとりとめもない話しをした。
そのときにはTの死のことも話題になった。
このときAは、「平均寿命まで未だ二十年近くあるから、それまでどう生きるか」というようなことを言っていた。
自分は平均寿命までは生きると思っていたのだ。
私は彼に「妻が亡くなってからは自分もいつ死ぬか分からないと思って生きている。平均寿命は統計の話しで、個々の人間がいつ死ぬかは誰にも分からない」と言ったことを覚えている。
彼の死因は聞いていないので分からないが、本当に人はいつ死ぬか分からないということだ。
今夜通夜があるとのことで、焼香に行こうと思う。
整理をするということ [考えごと]
料理教室 [日記]
そこで今日、ついに料理教室に行ってきた。今回は一回のみの体験コースということで、料金は3,800円。
今回作ったのは、いなりちらし、キムチ肉じゃが、すまし汁、菜の花のナムル、利休まんじゅうの五品。2時間で、これだけのものを作るのは忙しい。覚えるというよりは、言われるままに、ひたすら作業をしたというのが私の実感。
一食3,800円で外食するなら結構ご馳走が食べられるかも。でも、初対面の人たちと協力しながら料理に挑戦して、その後いろいろ会話しながら一緒に食べたのは、なかなか楽しかったよ。
できあがったものを写真に撮ろうとカメラを持って行ったのに、すっかり撮るのを忘れてました。家に持ち帰ったキムチ肉じゃがと利休まんじゅうを、美しくないけど載せておきます。
妻が夢に…。 [日記]
どこかの旅先。まわりは寺院風建物の明るいオレンジ色の柱が立ち並んでいる。
その前を妻が歩いていた。
私は思わず妻の名を叫び、駆け寄り、妻を抱きしめた。
「やっと会えたね。」
妻は、少し戸惑った様子。でも嬉しそうだった。
妻が亡くなってから、夢の中で会いたいと、ずっと思っていた。
やっと会えたのだ。
そこで、ゆっくりと目が覚めた。
とても嬉しい気持ちが胸にすうっと広がった。
アーサー・C・クラークの死去 [日記]
気持ちを入れ替えたい。 [日記]
気持ちの持ち方で、自分のまわりの見え方が変わってくるのかも知れない。
世界に対して自分の気持ちを投影して見ているのだと思う。
落ち込んだ気持ちでまわりの世界を見ると、世界も暗く陰鬱に見えてしまう。
日常の小さなことでもいいから、楽しいことを考えよう。
そして日常の雑事を楽しもう。
やらなければならないことを仕方なしにやっているのではなくて、楽しいと思うようにしようと思う。
ネガティブ思考に陥りがちの私には、簡単なことではないけれど。
自分の現実を受け入れよう [日記]
今年は自分にとって、今までの人生上で最悪の年だったと思う。
でも、その現実を、心が未だ、きちんと受け入れきっていない。
だから前向きな気持ちになれないのだと思う。
淡々とした気持ちで生きられれば、それでいいと思うのだけれど…。
平常心に戻るには時間の経過が必要なのかも知れないが、その時間の経過を耐えて待つしかないのだろうか。
少しずつ書いていこう [考えごと]
私は池田晶子氏の書いたものが好きだ。私の感性に合っているのかも知れない。
でも、池田晶子氏は、パソコンを所有したことが無いそうで、インターネットを利用することも嫌いだったらしい。そして特にブログに嫌悪感を抱いていたようだ。
<それからもう一つ、ネット社会において、これはたぶん同じ事柄として避けようがないのでしょうが、人間の悪意というものが、業のようなものとして出てきます、さっき言った勝ち組負け組という選別の基準によれば、負けに回ったと思っている人たちの一種の憂さ晴らしでしょう。ネット社会の悪意というのは、恨みつらみ妬み、何やらすごいという。そういうものを発散する場所としてのネット、あるいはまた、ある種の自己顕示欲の捌け口というものがあるようですね。ブログという形式があるらしいですが、とにかく他人に知られたいという欲求だけがあって、どうでもいい言葉を垂れ流して恥じるところがない。つまり、考えられていない言葉を口にするという行為自体への疑いが、もう存在していないんです。>(『人生のほんとう』Ⅳ存在-ネット社会の悪弊)
ブログに載せるのが誰かに読んでもらいたいからなのは、誰でもそのとおりであろう。私の場合は、誰かに共感してもらいたいのである。別に憂さ晴らしではないし、目立ちたいと思っているわけでもない。そして自分でもくだらないと思える言葉(文章)を載せて構わないと思っているわけでもない。訪問者への礼儀を失していないつもりである。
池田晶子氏には、食わず嫌いによる偏見があったように思う。
それにもかかわらず、やはり、私は池田晶子氏の書いたものが好きだ。池田晶子氏は<私は本質的にしか物事を考えられない>と、どこかに書いていた。そこが好きなのだ。
妻の死
妻が亡くなった。享年52歳だった。
2か月前のことである。
今年の3月に子宮体癌であることが分かった。
肺等に腫瘍の転移があり既に末期だった。
子宮体癌であることは医療機関から妻に直接告知されたが、腫瘍の転移があることを妻に話したのは、セカンドオピニオンを受けてからだった。
末期であっても、もっと生きてくれることを願っていたが、5か月半で逝ってしまった。
その間、いろいろなことがあったが、過ぎてしまえばあっという間であった。
一人になってしまった。
私にとって、今まで、いかに妻が大きな精神的な支えであったかを、ひしひしと感じている。
今は、東京で暮らしている一人娘と、精神的に支えあって生きていこうとしている。
江藤淳のように、妻のあとを追うように逝くわけにはいかないのだ。
「99.9%は仮説」 [読書]
半年以上前に購入した本だが、(何かの待ち時間だとか、たまに電車に乗った時などしか読まなかったので)昨日、やっと読み終えた。
サブタイトルの「思いこみで判断しないための考え方」がこの本のテーマといっていいと思う。 非常に読みやすく、分かりやすい本である。理科系向きとかいう人もいるが、そんなことはなく、一般向けの良い啓蒙書だと思う。
「世界は仮説でできている」といっても、真実は分からないから信じるなと懐疑主義を勧めているわけではなく、「一般に真実とされている科学的知識は原理的なものも含めて絶対不変ではない」ことを例証しているのである。
著者が「100%は仮説」と言わず「99.9%は仮説」と言っているのは、おそらく、「100%は仮説」と断言してしまうと、「100%は仮説」という主張自体が仮説ということになり、パラドックスに陥ってしまうからだろう。「99.9%は仮説」という主張が真理であるという命題ならば論理的矛盾はなく、「0.1%の仮説でない真実」の内に「99.9%は仮説」という主張が含まれていると考えることが出来るからである。
この本を読んでの私の一番の収穫は、次の点にあった。
科学哲学者カール・ポパーが「科学理論は常に反証可能である」として、「反証可能性」の有無を科学と疑似科学とを峻別する基準として提唱したことの意味を極めて分かりやすく説明してくれたことである。(因みに、コンサイス20世紀思想事典の、「反証可能性」とは「言明が、論理的にそれと矛盾する個別的な観察言明によって偽とされる可能性のこと。…」という解説を読んだことがあるが、非常に難解で良く分からなかった。)
科学理論の仮説は、より精密な実験によって反証される可能性が常に残っているので、完全な証明というものは永遠に出来ない。しかし、証明は出来なくても反証は出来る。つまり、理論に反する実験や観察結果が出てきたら、その理論が反証されたことを潔く認める。それが科学だということをカール・ポパーは主張しているのである。
これに対して疑似科学は証明も反証も出来ない構造になっているのである。
かつて騒がれた「ノストラダムスの予言」などは証明も反証も出来ない疑似科学の典型である。
最後に、この本の概要は、その目次を見るだけで、だいたい分かると思うので以下に記す。
プロローグ 飛行機はなぜ飛ぶのか?実はよくわかっていない
第1章 世界は仮説でできている
第2章 自分の頭のなかの仮説に気づく
第3章 仮説は一八〇度くつがえる
第4章 仮説と真理は切ない関係
第5章 「大仮説」はありえる世界
第6章 仮説をはずして考える
第7章 相対的にものごとをみる
エピローグ すべては仮説にはじまり、仮説におわる







